島左近の人生を書籍で疑似体験しよう!

島左近の人物データー

  • 1540年〜1600年(享年61歳)
  • 出身は大和国(現在の奈良県)
  • 椿井城

 

島左近は石田三成の右腕として関ヶ原の戦いで奮闘した武将。三成は左近を家臣にするために、自分の俸禄4万石の約半分である2万石を左近に与えて家臣に迎えたという。

 

義に生きた鬼左近と呼ばれた男の生き方を書籍で疑似体験してみましょう。

 

島左近

島左近関連の歴史小説おススメ3選

島左近 石田三成を支えた義将

 

 

いま一度、賭けてみるか―。明智光秀を裏切った筒井順慶に仕えるを良しとせず、一度は武士を捨てた島左近だったが、石田三成の志を意気に感じ、その参謀役となる。豊臣秀吉亡き後、天下取りの野望をむき出しにする徳川家康を打倒すべく、三成と共に立ち上がった左近。あらゆる手をつくし、ついには家康を関ヶ原へと誘い出すことに成功した―。主君のために義を貫く。その生涯を描いた長編歴史小説。

 

 

嶋左近 (山元 泰生)

 

 

筒井順慶に仕えていた嶋左近は、宿敵松永久秀との闘いの日々を過ごしていた。新当主定次の横暴を諫めるも叶わず筒井家を退去する。その左近のもとに石田三成が大いなる禄高をもって迎えたいと訪れる…。秀吉亡きあと、天下を目指す家康に対し、毅然と立ち向かい、武人の美学と矜持をもって生きた激闘の生涯を描く。

 

 

左近 (火坂 雅志)

 

 

我、昇竜たらん―。大和国を治せる筒井家で、その剛直さと胆力を認められた島左近清興は、若くして侍大将に取り立てられる。そんな中、梟雄・松永弾正久秀が大和に攻め入ってきた。次々に城を落とされ窮地に陥る筒井家にあって、左近は、松永勢を相手に獅子奮迅の働きをするが…。弱肉強食の時代に義を貫き、「三成に過ぎたるもの」と謳われた乱世の申し子・島左近の生き様を渾身の筆致で描いた長編小説。

 

 

島左近の書籍を他にもいろいろと探してみましょう。

 

電子ブックとオーディオブック

島左近の書籍を電子書籍でも探してみましょう。歴史小説などは多くはないですが、あればスマホやタブレッドなどで読めるし安いので便利です。

 

電子書籍で島左近の書籍を探そう!

 





 

『耳で聴く本』で楽しむオーディオブックでは、本の内容が聞けるのでとっても便利です。

 



島左近とは?

島左近の出自は大和国平群群といわれますが詳細は不明。

 

また、左近は通称で実名は島清興(嶋清興・きよおき)が正確といいます。

 

もともとは筒井順慶の家臣でしたが順慶の死後、家督を継いだ筒井定次に絶望したため、出奔して浪人生活を送ります。

 

その後、数多くの士官の誘いがありましが、その中で最も熱心な石田三成に仕えます。

 

その期待に応えるべく、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」と評されるくらいです。

 

また、真価は関ヶ原の戦いにおいての猛将というべき働きをみせます。

島左近の経歴

簡単に島左近の経歴を紹介しておきます。

 

多少でも知っておくと書籍を読むときに楽しくなるでしょう。

 

島左近は、島政勝の子として誕生したといいますが、詳細は不明です。

 

島氏は椿井城、大和の西宮城を本拠にしていたといいます。

 

筒井順慶の家臣として戦っていて、辰市の戦いの前に『嶋左近尉殿』という名がはじめて見られます。

 

その後の功績が認められて筒井家の重臣として活躍し、宿敵松永久秀を倒した信貴山城の戦いでも活躍したと考えられます。

 

1588年

この頃に、筒井定次に愛想を尽かして出奔し、浪人生活を送ったといいます。

 

その後は蒲生氏郷や豊臣秀長、秀長の没後は豊臣秀保に仕えたともいいます。

 

石田三成家臣時代

左近は当時から名をはせていて、多くの士官要請がありましたが、ことごとく断っていたそう。

 

三成からの要請も断っていましたが、三成の説得で士官を受け入れたといいます。

 

俸禄は2万石で、これは当時の石田三成の禄高は4万石なので、半分も与えるという破格の待遇であったのです。

 

島左近が三成に仕えたのは、三成が佐和山19万石の城主になってからという説もありますが、それでも2万石は破格の条件といえます。

 

1600年

そして1600年が関ヶ原の戦いです。

 

徳川方は、左近の関ヶ原の戦いぶりは、「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と恐れさせたといいます。

 

最後は、黒田長政軍の鉄砲隊に銃撃されて、負傷した後に死去しました。

 

異説もありますが、簡単に島左近の経歴になります。

スポンサードリンク